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現役蒸気と復活蒸気。模型と日々の出来事も。

皐月の釜石・大槌(最終回、母の日記念)

皆さんこん○○は。

長々と続けた本シリーズですが、本日をもって一旦おしまいとさせていただきます。


2019/5/12 東北本線花巻空港

Olympus OMD EM1 MK2 + M.Zuiko ED 40-150mm f2.8 PRO

カテゴリとしては釜石線に入れてありますが、これは東北本線での返却回送の一場面。
これまでは、ここまでは撮影せず、新花巻でボ~ッとしておりましたが、
今回は多少気持ちの余裕もあり、C58239号機を初めて間近で眺めてみました。

この日は母の日。だからのキャブにカーネーションなわけですが・・・
あなたは、どこを拡大しますかね?
実は運用表も、モリ⇔ハキ⇔トノ⇔カマとはっきり読み取れます。

もともと、罐をじっくりそばで眺めるのは大好きです。
罐といつも接近していたのは、小学校2-3年生の三重県四日市時代でした。
関西本線の踏切を渡って買い物に行き、本屋で立ち読みしていたわけで、
その関西本線踏切は四日市駅のはずれ、ということは当然開かずの踏切。

入換用の罐がボッボッボッ・・・と踏切にかかるのを延々と間近で眺めていたわけです。

また、小学校校庭のすぐ裏手にも別の踏切があり、ここは桑名方に向かう汽車が四日市を
発車して三滝川橋梁への緩い登り勾配をダッシュしてくる場所。
重い貨物牽引のD51がスロットルを開けてブラスト高らかに突っ走ってくる場所でした。

さすがに小学校3年生はまだ写真撮影など出来ませんでしたが、それらは写真よりも私の五感に
浸み込んだままとなっております。

最後に、改めまして、今回の釜石線撮り旅の現地ガイドをお勤めいただいた楓ちゃんと、現地
俯瞰撮影応援隊の皆様へ感謝の念を捧げまして、本シリーズの締めとさせていただきます。
ありがとうございました!
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Comment

マイオ  

koppel-2さん

いつもコメントいただきありがとうございます。

父の日には・・・何もないのかもですね。私も子供たちから花は貰ったことないし、要望もしないし。お父さんは常に寂しい、疎外された存在なのですね~(それを孤高ともいう)

「この鼻は私のです」、「おや象さんでしたか?」なんちゃって~おやじギャグでスンマセン。

すべったところで、この頃ってやたら歌いだしの前に独白がついてて、「お元気ですか そして今でも・・・」なんて、またすべっちゃった?

2019/05/29 (Wed) 08:29 | EDIT | REPLY |  

マイオ  

堤防さん

それは奇遇ですね~
大羽根園は一月くらいの滞在でしたので、四日市ほど印象に残らずでして、この時以来ご無沙汰となりました。

四日市の小学校もその後は統合されて、廃校になったと聞きましたので、それきりです。

大羽根園界隈は現在の地図で見ると、住宅がびっしり建ってますね。当時は区割りだけされた広大な空き地だらけで、これはこれで不思議な空間でした。

2019/05/29 (Wed) 08:15 | EDIT | REPLY |  

koppel-2  

マイオさま キャブに粋な事するもんですね。
初めて観た様な・・・ 父の日に何を括り付けるのかなぁ?
バスの運転席に紫色の一輪挿しに造花が差されているのは、観た事がありましたが、生花を特別な日には飾る習慣があったという事ですかねぇ 『♪ この花は私です。』変な宗教に関わらなければずっとファンでいられたものを・・・

2019/05/28 (Tue) 14:01 | EDIT | REPLY |  

会津の自然と汽車  

いゃあ奇遇ですね。うちも菰野町で、電話はなく有線電話で交換手にかけて電話につないでもらっていました。中学になって亀山までチャリで行ってました。両親が海外に赴任して祖母の家に置き去りになり、当時は湯の山線にも名古屋行き特急があって、田んぼの向こうを走る姿を見るのが日課でした。

2019/05/28 (Tue) 12:39 | EDIT | REPLY |  

マイオ  

堤防さん

連コメありがとうございます。

1966/3に母と私は東京に引っ越し、父は四日市に単身赴任となり近鉄湯の山線の大羽根園に引っ越し。1966年の夏休みに一家で大羽根園の新居に滞在しました。確か菰野町の一部だったと思います。

この新居には固定電話がなく、徒歩10分くらいのよろず屋の電話で呼び出ししていただいていました。まぁ、夏休み中の小学生には電話など必要もなく、不便だったのは母だろうと思いますが。

2019/05/28 (Tue) 12:10 | EDIT | REPLY |  

会津の自然と汽車  

母の実家は近鉄湯の山線でしたが、私はいつも国鉄で来て、三重交通のバスに乗りました。祖母は無煙化されてからも、また汽車で来たのかと呆れてました。安い早い沢山走ってる近鉄に乗らずわざわざ国鉄に乗る孫が不思議だったのでしょう。懐かしい思い出です。

2019/05/28 (Tue) 08:43 | EDIT | REPLY |  

マイオ  

堤防さん

はい、時期としては1964/9から1966/3でした。東京オリンピックのTV放送は四日市で白黒TVで見てましたよ。
湯の山から四日市方向を見ると、空がどす黒かったのが印象に残っています。子供心にあそこに住んでるのか・・・と動揺しました。三滝川は家からチャリで至近でした。遊び場は小学校校庭が放課後集合場所で、そのあと色々で・・・我が家もガキどもの拠点の一つでしたしね。
我が家は国鉄を利用するつもりなど両親にはなく、名古屋もお伊勢参りもすべて近鉄利用でした。私にとっては、汽車は乗るものではなく、見るものでしたね~

2019/05/28 (Tue) 08:14 | EDIT | REPLY |  

会津の自然と汽車  

マイオさま
 マイオさまも四日市にお住まいになったことがあるのですね。私も母の実家が四日市で、幼稚園時代に1年間住んでたことがあります。三滝川でよく川遊びをしました。石油コンビナート全盛期で海側は星がありませんでした。名古屋からC57の牽く客車列車に乗るのが楽しみでした。

2019/05/28 (Tue) 07:10 | EDIT | REPLY |  

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